漂流記ジョン万次郎だけじゃなく/三浦綾子「海嶺」

海嶺(上) (角川文庫)

海嶺(中) (角川文庫)

海嶺(下) (角川文庫)

がっつりした小説を読みたいと思った時、三浦綾子はハズレがないよねー。あらすじはAmazonから。

天保三年(1982年)、知多半島から出航した千石船宝順丸が、遠州灘で難破する。岩松、久吉、音吉の3人は、1年2ヶ月後、奇跡的に北アメリカに漂着する。彼らには想像を超えた運命が待っていた。感動巨編!

実話をもとにした作品で三人の遭難を時系列にまとめると以下の通り。

1832年11月 遠州灘にて遭難、帆柱を失い進路が取れなくなる。米を運ぶ船だったので遭難後も米だけは確保されていたが、乗組員14人のうちほとんどは壊血病で死亡、年少の音吉・久吉、30代手前の船頭岩松のみが生き残る。
1833年末~1834年初頭 アメリカ フラッタリー岬に漂着、
1834年11月 アメリカ フォート・バンクーバー出発
1834年末 サンドイッチ初頭(ハワイ)へ立ち寄り南米周りでロンドンへ
1835年6月 ロンドン着、アフリカ周りでマカオへ
1835年12月 マカオ着。日本行きの船を待つがなかなか機会が訪れず一年以上滞在、途中、九州から漂流した4人と合流
1837年7月 7人揃ってマカオ発。アメリカ商船モリソン号で日本へ。
1837年7月30日 江戸湾着
1837年7月31日 江戸幕府より砲撃される
1837年8月10日 鹿児島湾着、現地役人と話す機会を経て事情を伝えるも、翌日やはり幕府により砲撃される
1837年8月13日 日本近海を離れる
1837年8月29日 マカオ着

あぁっ、豪快に結末を書いてしまいました! そう、彼らは思い焦がれた日本の地を目の前にして、「外国船がきたら追い払え!!!」という号令のもと、砲撃を受けマカオに戻ることになるのです。彼ら7人のうち、何人かはその後日本に上陸することがかなうのですが、それについては本を読んでのお楽しみ☆ 作者の「創作後記」がぐっと来ます。

オランダ以外の西洋文明と日本の初めてのコミニュケーションなども興味深く描かれており、こんな幕末(の直前)もあったのかと深く楽しめる作品です。音吉たちが江戸湾にやってくるあたりにはこんなことが書かれています。

当時幕府が恐れたのは、外国船の武力もさることながら、それ以上にキリスト教の布教を恐れた。キリスト教は人間平等と人間尊重の思想を育てる。それは必然的に権力批判をもたらす。幕府にとってはそれが何よりもキリスト教を恐れる理由であった。しかも、モリソン号の訪れたこの時代は、天保3年以来至る所に大飢饉が起こり、多数の餓死者が全国的に続出した。飢えた民衆は徒党を組んで豪商を襲い、富農を襲った。(大塩平八郎の乱もこの頃です、中略)この米騒動を鎮圧するために、国民の目を他に外らすことが急務であると幕府は考え始めていた。国民が一致するのは外敵に対する時である。外敵に備えて、各藩の陣地を固めねばならぬと備えていたところにモリソン号が日本に来たのである。文政八年「異国船無ニ念打払の令」が出されて以来、この日に至るまで、この法令が行使されたことは一度もなかった。

うーん、どこかの国の最近のお話のような・・・。

今日の自分メモ、G8がG7に。

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