百日紅アンのゆりかご読んでいる/村岡恵理「アンのゆりかご―村岡花子の生涯」

アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)

甥っ子を見送りに行った羽田空港の本屋さんで「白蓮れんれん」と「アンのゆりかご」が肩を並べて平積みで発売中だったので、二冊まとめて買ってきた。アンのゆりかごから読みだしてみましたが、うぉう、時代の荒波っぷりがすごい!!! 時代の荒波をかぶる登場人物の多いこと多いこと!!

いまのところおもしろかったとこをメモメモ。これから読む人はすっとばすがよい。

・宇田川満代先生のモデルは、吉屋信子さんだと思われ。彼女の軸に今後、これからの女流作家さんたちのキャラクターが肉付けされていくのではないかと。吉屋信子さん、たいそうバリバリ稼いでいたらしく林芙美子にこんなふうに言われてる。

生活 林芙美子
(中略)
「吉屋信子の税金は下手な実業家以上です」と、税務所のお役人が云われたけれども、私は吃驚しているきりで何とも話しようがなかった。一、二枚のものを書いても林芙美子だし、かりそめに、ゴシップに林芙美子の名前が出ていても、それをいっしょくたにしてあれこれ云われるのでは立つ瀬がないから、「どうぞ雑誌社や新聞社で、私が稿料をいったいいくら貰っているかきいてみて下さい」と云うより仕方がない。吉屋さんは先輩でブンヤも違う。「あなたは文学はお好きでいらっしゃいますか」とたずねると、お役人は、学生の頃はそれでもちょいちょい読みましたが、いまは法律をやっていますと云うことだった。感じのいいお役人であったが、年収四千円は困ったことだと思った。純文学をやっているひとって、案外、派手のようだけれど貧乏で、月五拾円あるひとは、新進作家の方でしょうと云うと、そうですかねえと感心していた。

・安中はなちゃんが通った鳥居坂の東洋英和女学院、寮の仲間たちでおやつのきんつばを買いに麻布十番商店街まで足を運んでたそうです。目と鼻の先だもんねー。おぉーここにも時空を超えたご近所さんが!

・東洋英和女学院と男子が通う東洋英和学校内尋常中学部が当時はあったんだけど、戦争が長引くに連れミッションスクールは冷遇されていきます。男子の尋常中学部は学校としての存続を選び、キリスト教色を排除、そしてこの学校が後の麻布高校となっていくのです。

・横浜山下町にある村岡印刷は当時大企業! アジア圏の聖書の大半はこの印刷会社さんから旅立って行ったのではないかというくらい!(←ちょっと盛ってます☆) カフェの紳士のお父様は、実は背中に倶利伽羅紋々がございます。上海で印刷技術を学び帰国、(現)王子製紙子会社で聖書印刷を手がけ後に独立、ハングル文字をはじめ各種書体を持っており、「信仰すなわち事業」という考えのもと事業を発展させていきました。そんな村岡印刷の息子たち・・・として見ると、単に珍獣好きのボンクラ長男、天然笑顔のボンクラ次男というわけにはいきませんな。

・カフェドミンゴでみんなが集まりすぎ!と私も思ったもんですが、昭和十二年あたりのお話をちょっと引用。

同じ年、宇野千代がファッション雑誌『スタイル』を創刊。お洒落なセンスが、若い女性や主婦に歓迎された。
花子は発刊当時、宇野千代から年間購読と随筆の寄稿を依頼され、喜んで承諾。御礼として、千代の元恋人である画家、東郷青児による素描(恐らくモデルは千代自身)を受け取った。宇野千代は昭和14年(1939)、『スタイル』の協力者の北原武夫と結婚。媒酌人は吉屋信子と画家の藤田嗣治、披露宴の司会は花子が務めた。

いやはや、結婚式ひとつをとってもこれなんですもの、カフェドミンゴに毎回全員集まることくらい、どうってことない気がしてきましたわ。

朝のドラマは、特に行った聞きたりの恋愛ドラマに時間かけすぎちゃったよね、実際は出会って半年で結婚したのにね、でもそうやって時間を割かないと表現できないところだったのよね。これから関東大震災があって、家族を失う悲しみを何度か味わって、戦争が始まって、花子さんのラジオ番組が始まって、戦局が悪化して、空襲にあって、戦争が終わって、昭和27年に「赤毛のアン」を刊行して、ってまだまだ盛りだくさんですものね。最終回まであと8週間、これからは前回の結婚式の週のようなスピードでガンガン物語が進んでいくと思いますわ! 

朝市然り、嘉納伝助然り、振られた俳優さんのファンが大量に増えるドラマ、それが「花子とアン」。

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