感動を与えられるプレーをしたい

という台詞を聞くたびになにか違和感を覚えていたのですが、今日のJMMから。
■■ 編集長から(寄稿家のみなさんへ)■■
Q:923への回答ありがとうございました。北京五輪が始まり、大手既成メディアでは「感動」という言葉が多用されそうです。しかし、たまたま見た高校野球の開会式で「感動を与えるようなプレーをしたい」というニュアンスの選手宣誓があって、愕然としました。結果的に感動を与えることは可能ですが、感動を与えようという意図で、作品を作ったり、パフォーマンスを行うのは不自然で、不可能だからです。
「わたしはあなたに感動しました」というのは自然ですが、「わたしはあなたを感動させました」という表現はあり得ません。わたしは、小説を執筆していて、この作品で読者を感動させたいなどとは決して思いません。謙虚だとか、そういうことではなく、不可能だからです。わたしの作品を読んだ読者が「結果として」感動することはあるかも知れません。しかし読者の感動に、わたしが関与することはできません。だからわたしは、何とか最後まで読んで欲しい、と思いながら小説を書きます。
 
「感動を与えるようなプレーをしたい」という言い方ですが、宣誓をした選手に非があるわけではなく、社会全体にそういった倒錯があることの反映でしょう。高校野球のプレーやオリンピックのパフォーマンスが、ときに人に感動を与えるのは事実で、自然なことです。でも、どんなに優れた選手でも、意図して感動を与えるのは無理なのです。他人の心と感情の動きに、誰も関与することはできないからです。感動に関する社会的な倒錯は、社会が感動に飢えていることの証しかも知れません。

この倒錯「感動をありがとう」「夢をありがとう」という言葉を大手メディアで耳にしたのは、星野仙一氏の言葉が最初だったのではないかと思います。1999年の中日セリーグ優勝あたりの話かしらね? 
今年の夏の甲子園の選手宣誓は、「宣誓。今まで支えてくれた家族、仲間、先生、応援してくれたすべての人たち、そして90回という歴史を築き上げてこられた先輩方に感謝し、全国の人に元気、勇気、感動を与えられるよう正々堂々とプレイをし日本中に高校野球のすばらしさを伝えることを誓います」という文言でした。高校生がこういう言葉を使う背景には、村上さんのいう「倒錯」の前に、こういう日本語が横行してるわけで、どんなモノを読んでるのかちょっと気になります。
昨年の話ですが、あるお芝居の終幕後のカーテンコールで「(感動を)ありがとうー!」と客席から叫んでいる人を見てしばし考えてしまいました。この場でありがとうという言葉をもし使うのであれば、最後まで席を立たなかったお客に対して役者が口にしたい言葉でありましょう。「すごーい!」とか「面白かった!」といった賞賛の言葉ならまだしも、ありがとう?
勇気って与えられるものだったかしら? 生きていくうえでの勇気ってスポーツマンが与えるものなかしら? 夢って自分で見るものじゃないかしら? 感動は自分の心が動かない限り決して生まれないものじゃないかしら?「○○を与えたい」という言葉に「上から目線感」を感じてしまう自分のココロの狭さの問題かしら? 言葉は世につれてうつろうものかもしれませんが、どうも私はこれらの表現になじむことができません。
んもー、あたい、言葉おじさんの愛人になりたいわー。

7 COMMENTS

Sっちゃん

○○を与えたい,という言葉に上から目線を感じるのもそうですが、自分の頭で考えたり、自分の心で感じたりする回路が全国的に麻痺してしまった結果ではないかとも思います。不都合はみんな誰かに責任転嫁したいのかなあ…。

返信する
田中

言葉って難しいですね。確かに「感動を与えたい」とか劇場で「ありがとう」という日本語は、日常用語の日本語としては「誤り」だと思います。しかし、誤りではなくその「主観」を否定することは誰にもできないと私は思います。ましてや個人の主観を全体主義に結び付けて論ずるは「ちょっと乱暴かなぁ」と思います。例えば少年が犯罪を犯しました。「今の若い世代はダメだ!」と論ずるのは、あまりに安易じゃないかと。彼らが犯した事件の性質を変えたのは「時代」なんです。世代じゃない。私が子供の頃ってインターネットとか携帯電話なんてなかったもーん。スガさんって日本語に対して「コダワリ」があるんだと思います。それは知識があるから。きっとスガさんが気に要らないのは「日本語の誤り」なんだと思いますよ。あっ、長くなってごめんなさい。

返信する
スガ

>その「主観」を否定することは誰にもできないと私は思います。
これは私も同感です。おっしゃるとおり、そういった誤った言葉遣いが嫌いなだけで、それにいちいちつっかかってる自分もちょっとどうかなーと思っています。

返信する
かちゃにゃ

「ブラボー」は「ありがとう」じゃないはずです。 
まあ、感想に「日々精進」と書いてしまう失礼な私ですが…
<面白くなかったときに書いちゃってるらしい

返信する
スガ

なんでしょうね、役者問題はちょっと脇においておいて、アスリートは観客のためにプレーしているわけではないし、観客もアスリートのプレーに感動することはあっても感謝するこたーべつにないでしょー、と私は思うのです。

返信する
としこ

くーっ私は同じこと思ってましたヨ。
みんな、耳障りのいい陳腐な言葉を安直に使ううちに、本来言いたかった感情からどんどんそれてしまっているような気がします。
ボキャブラリーの不足はともかく、言葉に対する鈍感さが、結果的に違う結論を生み出しているような。
アスリートはマスコミの使う言葉に流されずに、なるべく率直な言葉を使ってほしいですねー。彼らの動く姿が一番雄弁なんだから。

返信する
スガ

ぎゃーん、トシコティーヌ、いいこというー!
五輪も始まって一週間、試合後のインタビューで「うまいこといわなくちゃ」的な雰囲気が流れてません? インタビューアにマイクを向けられた聴衆も「期待にこたえなくちゃ、テレビ映えのすることいわなくちゃ」的な流れにありません? もっとフラットな、ふつうの言葉遣いの生きた言葉を聞きたいものです、猫がにゃーと鳴くような、犬がワンと鳴くような。

返信する

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください