アルプス一万尺

NHKの「日本の名峰」見ながら仕事してます。この番組いいわー。100インチのプラズマディスプレイなどで見たいものです。テレビ買い換えたいです。
こういう山岳映像のDVDとか好きなんですけどね、先日レンタルしたものが「飛行機から見た日本のアルプス」ってやつでしてたいそう物足りなく感じまして。空から見るんじゃなくて、稜線を歩く人間からの視線がちょっと入ってるとぐっと臨場感が高まるんですけどね。いや、それにしても、この「日本の名峰」シリーズ、いいわー。DVDが出たら買います。私の母方の祖父も(この人は、山で暮らし、山で死にました)、私の父も、山で仕事してました。DVDは父にも贈ります。ついでに私が使ってる32インチのテレビも両親に譲り、アタクシ自身のは早速買い替えたく・・・
中高年になったら登山を趣味として暮らしたいものです。
「アルプス一万尺」という唄がございますが、あれって日本の北アルプスをうたったものだったのですね。こちらに全歌詞がございます
ごめんなさい、一部転載させていただきます。
♪アルプス一万尺 小槍の上で
 アルペン踊りを さあ踊りましょ
この小槍は槍ヶ岳の頂上の脇にありますが、ある角度からしか見えず、ロッククライミングでしか登ることができないんだそうです。こちらが、実際に小槍の写真を撮影されてきた方のホームページ。
こ れ が 小 槍 で す !
目で見ないとわからないものってたくさんあるのねー。
アルプス一万尺の歌詞をひとつひとつ読んでいくと、山の楽しさと厳しさ(というよりもせつなさ)が伝わってくる。この唄を作った人はどんな人だったのだろう。どんな山を経験して、その経験の後に、どんな思いでこの歌詞を作ったのでしょう。
♪命捧げて 恋するものに
 何故に冷たい 岩の肌
あぁ、切ないっ! そして、槍ヶ岳は『アルペン踊りをさあ踊りましょう』というほど生易しい山ではないように思われます。踊りを踊るのは、むっさくるしい山男たちよりも、娘さんたちのがよいと思われますが、この唄を作った時代では女性はなかなか登れなかったのではないでしょうか。ですので、実際に小槍の上でアルペン踊りを踊ったのは山男たちだったのでしょう(それもロッククライミングの後に!)。そんな山男たちの姿が先ほどから頭の隅にちらちら見え隠れているのですが、絵柄が田亀源五郎先生のものでして・・・・・・はっ、仕事仕事・・・。
上を書いてから2時間経過。
最初に沖縄行ったときに買ってきたCDを聴いているわけですが・・・そのCDの背中にある『1989年』という数字を見て、くらぁっとしている最中です。
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1989年って、お正月明けに昭和天皇が崩御して、2月に手塚治虫さんが亡くなって、6月に美空ひばりさんが亡くなり、「昭和が終わった」といわれた年ですな。当時のあたしは多感な受験生でした。ほほ。
♪七月たなばた中ぬ十日
 仲順流りや七流り
 黄金ぬいハヤシや 七ハヤシ
 
 クーダーカー まんじゅう主や
 美らユーベー とぅめてぃてぃどー
 ヨー玉黄金 くゆいぬ話ぬうーむっさー
むふーん。地元の青年団の勇壮なエイサーを見たくなり、ネットを検索してみましたが、えぇ、かの地ではエイサー祭りは終わっていました。
私の沖縄ファーストコンタクトは9月の終わり、エイサー祭りの只中だったのですよ。あの頃はまだ竜神様と出会ってなかったので、9月だというのに台風にもあわず楽しく旅することができました。あれから何年も経ちました。当時はわからなかった言葉も、歌詞の意味も、今ならわかるようになりました。ただ漫然と毎日を生きているだけのように見えても、それなりにゆるゆると経験と知識を積むという、人生の楽しいこと。

4 COMMENTS

かが

1989年って、
美空ひばりさんがお亡くなりになる半月ほど前に天安門事件が起こり、同日(たぶん)にホメイニ師が亡くなり、
秋にはベルリンの壁が崩壊し、クリスマスにチャウシェスクが民衆に吊るされた、
そんな年ですよね。
終わったのは昭和だけじゃないのでしょう。
沖縄には未だに行ったことがありません。

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みね

高校時代女子高の山岳部にいた私は、アルプス一万尺を歌いながら槍ヶ岳に登りました。その時に「子槍の上でアルプス一万尺は踊れないだろー」と子槍を前に感じてました・・・。あの歌は9番まであったのですね。
そして、1989年お正月明けに昭和天皇がお亡くなりになった日は、当時のあたしは何も考えてない大学1年生。静かな渋谷で飲んでました。ほほ。
あっそういえば、翌年天安門後の北京を旅したのを思い出しました。若っ。

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ナガ

「名峰」いいよねー。余計なことしないで、淡々と美麗な山映像を流してて。BGVとして最適と思います。

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むち

それぞれの1989年があったわけですねぇ。
昭和天皇が亡くなった日は、地元でどんと焼きの準備をしていて、私自身は「へー」と思ったまますぐさま受験勉強に戻りました。あの日はまだ冬休みで土曜日でした。その翌週が共通一次試験の日。信州大学まで受験しに行ったもんですよー。

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