革命ってのは気前がいいな - チェ 28歳の革命

革命ってのは気前がいいな - チェ 28歳の革命
とすこたんと六本木ヒルズ東宝シネマで。土曜の映画館はデートに最適ということでなかなかの混雑。しかし、来ている連中の大半から、なにかのオシャレ映画の試写会のように、業界人っぽい香りがしてくる。とにかく、おしゃれな男性が多かったです。私はといえば、腕を組み、始終眉間に皺を寄せて鑑賞しました。
ベニチオ・デル・トロが28歳に見えない!
しかし、彼が適役だったのも事実だ!!!
祖国か、あるいは死か! 
ヒグマか、あるいはウカ! うん、違う!
この人も、結局は、旅人だったんだよなぁ。
映画は、人が撃たれれば見るものも同じように痛みを感じるような、華やかさのかけらもない淡々としたドキュメンタリーのようで、あの時代から今が途切れずにつながっているのだと思わせるものでした。特に国連のシーンが印象的でした。カストロも、しゃべり方やいろいろなしぐさや、なんとなく底が読めない感じが雰囲気出ていて、チェ・ゲバラの話し方なんかもものすごく研究されているようでした。赤いキリストと呼ばれる実在の人物を演じるのは相当のプレッシャーだったことでしょう。葉巻は、革命のシンボルでもあり、虫除けの役目も担っていたのですね。
チェ・ゲバラは1959年に来日したそうですが、Wikipedia からそのくだりを全文引用しておきます。
日本来訪
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本ではゲバラの知名度は低く、日本のメディアに”カストロ・ヒゲ[1]”と揶揄され、主要メディアはその動向を報じなかった。7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープの製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際に、当初は翌日に神戸の川崎造船所を視察後、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、広島が大阪から遠くない事を知り、オマール・フェルナンデス大尉と在日キューバ大使のアルスガライ大使を伴いに宿を抜け出して夜行列車で広島に向かった。25日に広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れた。
中国新聞の25歳の林立雄は、彼を単独取材した。彼はなぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのかと言ったという。彼はヒロシマをキューバに伝えた。以来、キューバでは現在でも、初等教育でヒロシマ・ナガサキをとりあげている。 日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。
1.「東京へ来たカストロ・ヒゲ」朝日新聞 1959年7月27日

林立雄さんの話は、先日報道ステーションでもやっていましたね。「えらいいい男じゃった」という話をしておりました。うんうん、わかるわかる。
 
モーターサイクル・ダイアリーズ、これもなにかおしゃれ映画の香りが。
※読むべきか、『新訳 ゲバラ日記 (中公文庫)』
とりあえず現時点でのこの映画の教訓は
 読み書きそろばんは人生の基本!
ですな。次は「38歳 別れの手紙」だ。

2 COMMENTS

とすこ

淡々と面白かったですなあ。
インペリアルホテルのシーンはボサノヴァ誕生でよく見る風景と似て、ぐっと来ました。
心なしか革命軍の戦闘服の着こなしが皆やや腰ばきでオシャレだった。
第2弾も絶対見なくては~。
その前にそろばん習いに行くか!

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スガ

>心なしか革命軍の戦闘服の着こなしが皆やや腰ばきでオシャレだった。
腰ばきでしたよねー。閣下がお嘆きになられるわと思いながら見ていました(嘘)。
私は、ゲバラの仲間のカミロのが若くてゲバラっぽいなーと思ってましたが、あの人は革命後に不慮の事故で死んでしまうのですね。暗殺とも言われているようなのですが。あぁっ! 

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