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プロ野球2018 キモノの国のエクソダス

生前は母がお世話になりまして

寒土用父の葬儀を済ませをり

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先週の金曜の夜、父が亡くなり、火曜に葬儀を済ませてきました。葬儀の日が母親の月命日で、母が亡くなってからちょうど半年で父はこの世を去りました。

昨年七月の母親の葬儀のときは初めてのことで、いま振り返れば父親もショックで気が動転していて言葉は悪いけど葬儀ハイといってもいい状態で事務手続きはなにもできず、若いけど落ち着いた葬祭ディレクターの男性に伴走してもらってなんとかやり遂げたという感じでした。二度目の親の死は、その葬儀を含め諸々の手続きなど、それはそれは淀みなく要領よく進んでいきました。前回は暑さが急に厳しくなってきた折で、葬儀場や火葬場の手配が難しく、母は長く自宅に安置しておりましたが、今回はタイミングよく日程が取れてすいすいと。こちらも手慣れたもので葬儀の準備が早くできてしまい「あんた、一回東京帰って、いろいろ片付けてきなさいよ、喪服持ってきたりさ」と姉に送り出され、15日の日曜日はこちらでゆっくりしていたという次第。

年末から長野と東京往復し続けました。
12月30日にいろいろな数値が下がってしまい、主治医と看護師の姉が面談を。主治医の退席後はあとを引き継いだ主任看護師と相談し、「思い切ってお正月に外泊されてみてはいかがですか」という段取りに。
その前の25日、26日も付き添いしていたけど、30日、31日、1日と私は病院に付き添い、2日朝に東京に戻り、いろいろ仕事片付けるつもりが自宅に到着した途端、爆睡してしまいなにもできないまま、また3日朝に長野へ。
3日、4日、5日と実家に父を連れていき、母に買った介護用のベッドに寝かせ、穏やかに家族で過ごす。酸素も外れ、弱々しい声ながらも来客があれば気の利いた冗談まで言ったりして、娘達がビールを飲めば「俺にもちょっと頂戴」と手振りで要求する。「あれ、もしかしてお父さん、これってこのまま退院モード?」と笑いながら病院に戻り、5日の夜も病院に私が付き添い、6日朝に私は東京へ戻ることに。このとき、病室のドアを閉めながら「じゃ、お父さん、またね」と声をかけ、父親が弱々しく手を振り、これが最後のやり取りに。

12日木曜の夕方、お友達と「年末年始、お互いの家族になにがあったかトーク大会」を新宿伊勢丹のいつものカフェで手短に開催。いずこも大変だねぇ、うむうむ、でもお父さん退院できそうでよかったじゃん、うん、でも退院したら退院したで今後のことがねー、一回東京引き払って長野で暮らそうかなーなんてのを視野に入れたいとも思ってるんだけど、とにかく一人で父ちゃん暮らせないからねーなどとやり取りを。
その後、バーゲン真っ只中の伊勢丹をパトロールし、昨年の夏から買いそびれていた母の写真を飾る写真立てを文具売り場で買い求めた。一人分の写真を入れるには少々大きく「これって二人分のサイズだよなー。いま飾ってる写真をこのサイズに合うように伸ばすか、それとも二枚飾るのかなぁ」などと。そんな縁起の悪いこと考えなきゃよかったっていまなら思う。

明けて13日金曜の朝、「日曜に面談の予定でしたが、お父さんの具合が悪いので明日に日程変更できませんか」という電話が病院から次女に。それを受けてすぐ次女は私に「寒波も来ているから、もし移動できるなら今日中に長野に入って」と電話をくれた。もともと週末帰る予定でいたけれど、予定を早め、その日の15時のバスを予約して仕事を片付ける。そうこうしているうちに午後2時に「今日移動できる人は今日来いって病院から電話があったよ」と次女からまた電話が。1時間に1本しか地元行きのバスが出てないのでいまさら予定を変えられず、とにかく早めに新宿に行き高速バスに乗り込む。病院に着いたのは19時前。

病院からの連絡を受け午後2時には病院入りしていた長女、学校を終えてから午後5時に到着した次女と次女の子どもたちが、個室の病室にてんでに座っていた。父は目を薄く開けてはいたけれど意識はなく、顎を使って呼吸を続けており、時折脈が途切れたりもしていた。19時半頃長女の家族が到着。「お正月、お父さんをおんぶしたときさー、『お父さん、私につかまって!』って言ったら、私のおっぱいを両手でガって掴んでさー」「やだー!お父さんが最後に握ったおっぱいのが娘のになっちゃうの!?」なんてちょっと笑い話したり、そしてそのあとみんなで黙りこくったりしながら見守った。

しばらくして脈が途切れる回数が増え、呼吸が小さくなる。看護師の姉が厳しい顔で心電図を見ながら父の脈を取り続ける。「心臓が先か呼吸が先か、どっちかが止まったら人は死ぬからね」と姉はいう。「お父さんは呼吸かな」と。そんな会話をしたのが午後8時頃。それからずっとふたりで父の手を握り続け、午後8時半頃、「そろそろかも」と姉が言ったあと、呼吸が途絶え心電図が激しく脈を打った。死の間際、呼吸が途絶えると心臓が痙攣し、「いま打っているこの動きは最後の動きになるの」と教えてくれた。それを見てから姉はナースコールを淡々と押し、直後に看護師が入ってきた。看護師はひと目みただけで状況を察し、「先生呼びますね」と一言残しすぐに主治医を伴いまた入室。ドクターは瞳孔を確認し「残念ながらご臨終です」と。時間は1月13日20時34分。

朝起きたら亡くなっていた母親と違い、みんなに見守れて父は旅立ったのだけれども、もがき苦しむこともなく、恐ろしい形相になることもなく、管をいっぱいつけられて集中治療室に閉じ込められるということもなく、いつもの個室で、集まることができる家族全員に見守られて旅立てたことはよかった。
「そろそろ退場する頃合いだのぅ」と決心して死んでいったようにも思う。葬儀の後、病院に挨拶に行ったら「外泊から戻られてから、全然食べなくなっていて、そこが心配だったんです」と主任看護師さんが教えてくれた。やはり、「死ぬにはこの辺だのい」と思っていたんだろうな。

人は食べなくなると、死ぬ。
高齢者に尿道カテーテルをつけると、割りと死ぬ。
生きていく理由がなくなっても、死ぬ。

という数週間を過ごしておりました。私はこれから先、なにをやって生きていけばいいのでしょう、と呆然としているところです。

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