梅雨あくるよい葬式ができました

先週の日曜、17日の朝に母が急死しました。その前の週末に介護帰省に行っており、火曜12日に「また10日後にくるからねー」「おまえがいないと寂しいけど待ってるね」が最後のやりとりとなってしまいました。父は亡くなる前日16日の夜、隣のベッドの母親と「じゃぁ寝ますからね」「うん、おやすみ」が最後の会話で、翌朝、母を起こそうとしたらすでに亡くなっていて、死後数時間経過していたようです。
母の病気がわかったのは2012年。そのときこの病気の平均余命が3~5年と知り、今年はその4年めでした。発覚した時、同じ病気になった家族を持つ方のブログをいくつか読んだけれど「鬼のような形相で苦しんで死んでいく」と記述されている方が多く、この数年はいつもその瞬間を迎えるのが恐ろしかったものですが、母のは苦しんだあとのない穏やかな死に顔でした。いまにも目をあけて「あれ、わたし、いま寝てた?」と起き上がって声に出しそうな、お昼寝しているような死に顔でした。

この秋、地元に完成する療養型支援センターに夫婦揃って入れるよう申請書を取り寄せたところで、わたしも「四十代は介護で終わるかなー」と覚悟したばかりで、急でした。本当に急でした。とはいえ、実家には頻繁に帰っていたし、面倒を見ることもできていたほうだと思うし、この半年はそれこそ10日置きに帰省し親の面倒を見ていました。よい娘だったかどうか、親がしてほしいことができていたかどうか、その採点結果をもう聞くこともできないけれど、でも、出来る限りのことはできたと思います。もちろん最後の現場には居合わせたかったし、居合わせることができるものと思っていたけれど、それは叶いませんでした。残念です。

以前「親御さんがそんな状態なのに、東京なんかにいていいの?」と人に聞かれたことがあります。「あらー、この方にはなんとお返事すれば満足されるのでしょう」とそのお顔をまじまじと見返したものですが、こういうやり取りが先週はゼロではありませんでした。葬儀の場でもありました。そういうときは心の中に住まう小池龍之介成分がひょこんと顔を出してくれて「あなたが満足する回答を口にする義理はありませんが、なにか?」と静かに静かにやり過ごすことにしました。みなさんも心のなかに小池龍之介さんをぜひ。

以下、思いついたこと、感じたことをつらつらと。

【葬儀関連】

葬儀コーディネーターの男性が素晴らしかった。若いのに落ち着いていて必要以上に恭しくなくて気持ちの良い方だった。なんというかおりますやん、自分にとっては一生に一度のことだけど先方にとってはルーティーンになりきってしまっている方。そういうところが一切なく、母の死んだ日曜日から葬儀が終わった翌金曜日まで、毎日伴走してくれて心強かった。

やってきてもらったお坊さんがそういう『ルーティーンの人』だった。通夜の席で「チェンジ・・・」とつぶやいた親族数知れず。告別式では普通だったのでよかったんですが、通夜の席はそりゃーもう。。。
二十歳の姪っ子が「なんであんなに心がこもってないひとがやってきて偉そうな顔するの!」とプンスカ怒っていて「だいじょうぶ、あの坊さんがおばあちゃんを送ったんじゃない。あの告別式の会場にきてくれたみんなのお悔やみの気持ちや姪っ子ちゃんが読んでくれた弔辞が、おばあちゃんを送り出したんだよ、あの坊さんなんていわば刺身のツマみたいなもんなのよ」と諭した。刺身のツマにしては随分な金額ではございましたが。ほとんどが戒名代だそうです。

わたしの祖父の約40年前の葬儀は、近所の人の手を借りて執り行ったけれども今は葬祭サービス業がそれを替わりにやってくれるのね。「親しい人が亡くなった悲しみ・・・そんなもの、俺が忘れさせてやるぜ!」とばかりにタスクが山積するものだとは聞いておりましたが、ほんとうにほんとうにこんなに! コーディネーターさんが敷いてくれたレールの上を走っていくだけなんだけど、納棺、通夜、出棺、火葬、告別式、葬儀、精進落としの順に大イベントが目白押し。其のなかで、何を食べてもらうか、お礼はなにか、棺は松竹梅とあるけどどれがよいか、それを運ぶのは白い特別仕様のレクサスか普通のトヨタ車か、火葬は決まったところでおこないます、あ、でも骨壷は選んでください、六寸と七寸があります、火葬場にはマイクロバス出しますけど何人乗られますか?、親族は朝7時集合ですよ、着付けは朝5時半からです、遅れないで下さい、足腰が弱い方が多いので参列用のバスも出しますよ、告知はこちらからしておきます、あ、あと、新聞に出すお母様の職業欄はどうされますか? すべて伏せる、ですね、オッケーです、かえってそのほうが気楽という方もいらっしゃいますしね、あ、これは○○新聞、○○新聞、○○○○新聞と○○新聞、合計四紙に無料で掲載されます、告別式の時間は親族席で完全待機、そのときにお返しするお品はなにか、精進落としはなにを召し上がってもらいます? あ、あとですね、高額のお香典の方にはお早めに返礼品を送ったほうがいいんですが、はい、当社経由でオーダーしていただけますと全品二割引です、いかがさないますか?・・・自分たちだけでは絶対成し遂げられないっす、こんなこと!

こういう洗練されたサービスがあって助かった。こちらは必要なものを、コーディネーターさんが見せてくれるiPadから選ぶだけ。骨壷は七寸(ぴったりサイズでした、お母さん、なんて小さくなっちゃって・・)、祭壇は地元の花を活かした一日一組限定の凝ったデザインのものを(水木しげるさんの祭壇をコンパクトにした感じ。田舎の葬儀は花の質と量が段違いです、母も喜んでくれたと思う)、通夜の席が滞り無く進むよう様々な備品用意してくれたりとか、ほんとうに手厚かった。Tさん、お世話になりました。ありがとうございました。

火葬場も葬祭場もスケジュールがいっぱいで、結局自宅に5日も安置したけれど、お腹に載せたドライアイスの威力がすごかった。連日30度にもなる梅雨明けの長野の気候によく耐えてくれました。ドライアイスは一式で9000円でしたよ。ここらへんにも技術進歩を感じました。そのおかげでゆっくりお別れをすることができました。

火葬場は最近できた施設で、大変にモダンで清潔で明るくて厳かな建物で、広やかな庭からは対峙するようにそびえる南アルプスの山々を見ることができ、『ここを作った地元の建築会社GJ!』と親指立てたくなる場所でした。よい場所でした。火葬に立ち会うような葬儀は10年ぶりでしたが、いまってお骨をそれなりに砕いてから収骨するのですな。ほほぅ。火葬費用は2万円(税込み)、なんというかお手頃・・・なのではないでしょうか。

母親が亡くなった日の夕方、訪れた方がもってきてくださったのは祝儀袋に入った「病気見舞い」。同じ席に「告別式にいけないので」と香典を持ってきてくださった方が差し出したのは「御霊前」「御香典」。告別式には「御霊前」「御香典」。葬儀が終わった翌々日に近隣の方が持ってきてくださったのは「お寂しお見舞い」。うちの地域だけの話かもしれないけれど、覚えました、覚えましたとも!

【遺族として】

先月帰省したとき、少ない金額ではあるけれど相続税対策するべと、両親の持っている口座や定期を洗いざらい調べておいた。だいたいの財政状況がわかり、これとこれを7月に解約し、この手順で孫子にお金を分配し、そのあと姉妹で再分配するべというざっくりした日程表を共有したばかりのことでした。しかし、結局相続税対策できなかった、まったくできなかった、間に合わなかった。
日曜の朝に亡くなり、翌月曜は海の日、火曜の朝、まだ凍結されていないATMに出向きしれっと出金し、葬儀に必要な現金を取り出しほっとしたのもつかの間、火曜の午後にはその金融機関から「お母様のことお悔やみ申し上げます。つきまして口座は凍結させていただきました。以降は相続税対象の口座となっていきますのでよろしくどうぞ」と電話が。間に合わなかった、ぐぬぅ、少ない金額でも二重徴税じゃんと下唇噛みたくなる。こういうお金以外にも間に合わなかったことはいくつかある、だからみんな、思い立った日がほんとうに吉日なんやで?

亡くなった日のこと。朝、父親が母の異変に気が付き、顔見知りの看護師を呼び様子を見てもらい「残念ながらお亡くなりになってます」となり、その後、日曜にやっている地域の医師が髄液を取り検死、その間、警察が五人やってきてさらっと家探しして(母の財布まであけていったそうです)「病死のようですな」と判断つけてお帰りになる、話には聞いてましたがほんとに警察くるんですね。姉はその医師のところに死亡診断書を書いてもらいにでかけ、受理して自宅に戻ってきた。ここまでが日曜の午後1時までのできごと。
この死亡診断書はコピーを取っておくべきでした。そのままなんの考えもなく役所に提出してしまったけれど、この書類は後々生命保険の受け取りや各種手続きに必要で、再発行される類のものではありません。医療機関にその次に発行してもらえるものが「死亡証明書」で、こっちは一万円の費用が別途かかるそうな。ぐーぬーぬー。みなさまも復唱してください、「死亡診断書は受理したその足でコンビニで複数枚・要コピー」

亡くなった翌営業日、つまりは火曜日に、母がリースで使っていた介護用ベッドが回収されていき、金曜には母が使っていたポータブルトイレと車いすが回収されました。家がどんどん広くなっていってしまう。
母親は13年前に、リビングの面積を倍増させる改築を思い切って行い、リビングの隣の部屋は広めの和室の客間として使えるようあわせて改築。しかしそのおかげで今回の通夜を自宅で行うことができました。なんと準備のよい人なのでしょう。先月も二人の持ってるお金を計算したあと、「お母さんのお金だもん、これで寝室改築しようよ!」などと話していた矢先だったのです。「わたしの高校の同級生、立派な工務店経営してるよー」「よしゃーそこに頼もうぜ!」などとやりとしていたのです。でも、これも間に合わなかった。全然間に合わなかった。ほんとうにいろいろが間に合わなかった。ここ数年その日に備えて準備していたつもりだったけど、自分の見積もりはまったく甘かった。

葬儀で使う母の遺影に使えるような写真を探していたら、病気になる前の母はこんなにふっくらとしていたのかと写真を見るだけで涙がでてきた。最後は痩せて痩せて痩せこけてしまい、わたしには最後の痩せた姿だけがインプットされてしまったけれども、本当はこんなに肉付きがよく、腰も曲がっておらず、スタイルの良い人だったのだと。葬儀の場で母の若い頃の友人の方たちと話す場を持つことができ、その印象も薄らいだ。よかった。

新宿に帰ってきて伊勢丹で返礼品を見繕い、その足で仏壇売り場で分骨用の骨壷はないかと尋ねてみた。「京王さんのがたくさんそろっています」と申し訳無さそうに応えられた。おいおい、新宿百貨店戦争はずいぶんとぬるいもんじゃねぇかとちょっとフフッとなった。ついでに2本、ジーンズ買った。姉に「おまえはジーンズを買い換えるお金もないのか」と散々現地で罵られたので買った。母親はいつも同じ格好で帰ってくるわたしの姿を見て、仕事がうまくいっていないのかもと心配していたかもしれません。もうちょっとよい服で帰省してもよかったのかもしれない。反省。

準備がよいといえば、母がわたしの喪服を用意していたのは知っていたけれど、今回通夜の前日、和箪笥をあけてみたら、わたしの名前で「夏 絽 喪服」と書いてある畳紙を見つけた。母親ったら姉妹三人分の絽の喪服まで作ってた。一生に本当に数回しか着ない喪服なのに、素晴らしい手触りの正絹の絽。姉妹3人の夏と冬の喪服を揃え、冬は泥染めのものを用意したそうで。あの少ない現金収入で一体どういうやりくりをしたのか。姉妹三人揃ってそれを着、なんというか着物道のゴールに達しちゃったなという思いが。

母はたくさんの人に見送られてゆきました。梅雨も明けて亡くなった日曜を除けば連日快晴で、父親がひとまず四十九日までは一人で暮らせるよう諸々整備しながら一週間仕事も休み、ゆっくりと見送ることができました。Wさん、仕事まかせっきりでしたがありがとうございました。いろいろ思いは尽きないけれども、多くの人に愛された母の一面を、その方々の口から直接教えていただくことができ本当によかったと思っています。準備のよい人だったこと、わたしも見習っていきたい。

4 COMMENTS

いち

お帰りなさい。
お疲れ様。
よく頑張ったね。
本当によく頑張った。
ここ数年のあなたの献身を
私たち東京(含む周辺)の友人たちは
みんな見てました。
お疲れ様。

しばらくは自分をよくいたわって、
ねぎらってあげてください。

月が変わったらみんなでご飯を食べよう。

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土屋遊

おつかれさまでした。
穏やかに逝かれたとのことで、それが何よりです。

わたしも介護をしていたのでわかるけど、本当に当事者は大変だと思います。他の人になにを言われても気にしない頑丈な気持ちが必要にもなりますよね。

ゆっくり休んでください。
ご冥福をお祈りいたします。

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asoyoko

おそらく、いつかすがさんのこの記録を、
自分のこととして思い出す日のことを思いつつ
読んだんだけど、
PC画面がにじんで読めません…

本当にお疲れ様でした。

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のの吉

すがさんは、本当に良い娘さんだと思います。
いつも自分だったら、あそこまではできないんじゃないかと思っていました。

お疲れさまでした。

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