おおぐま座になった薬缶のお話/ティファール ケトル 0.8l/ウカやん長編童話シリーズ

その家にいつくようになったのは2005年頃の話、今から16年前のことだ。

窓から東京タワーがちらっと見える小さい部屋に彼女は住んでいたんだ。いつも机の前にいてずっとなにかカチカチ音をさせてるか、夜中に出ていったかと思えば明け方酒臭い息をさせて帰ってきて、玄関から器用に一枚ずつ着ている服を脱いで、最後に上手に寝心地良い姿になって布団に潜り込んだりと、そりゃもう見ていられない生活をしていた。食事だって、住んでる建物の下にあるコンビニで朝買ってきて食べて、昼買ってきて食べて、夜買ってきて食べる。自分の出番だって、カップラーメンにお湯を注ぐときか、「健康な食事しなくちゃ!」とインスタントの味噌汁にお湯を注ぐときくらい。計画立てた栄養のあるまともな食生活をしていない。「いまはよくてもあとが大変なんだぞ」とスイッチをいれるたびに声をかけるんだけど、彼女の耳に届くことはなかった。

そんな彼女の家に、春のある日、小さい子猫がやってきたんだ。前足が太いんだけど体は小さい、顔なんてもっと小さい。アイラインがくっきりしていて美人になりそうな顔をしている。だけどついさっきまでペットショップとやらの小さいスペースの中で暮らしていたらしく、変なお香の匂いがする。店で使っていたニオイ消しの匂いがしみついちゃってるんだ。首にはまるで贈り物のような小さいリボンが結ばれている。「猫ちゃんに乾杯!」とかいってあの女は一本ワインを空けて眠り込んじまった。どこに行けばいいかわからないのかオロオロしている猫に話しかけてみた。

「なんだよおまえ、そのリボン」
「知らない。新しいところに行くんだよって、爪の長い女の子がつけてくれたの」
「あそこで酔っ払ってるあの女が引き取らなかったらどうなってたんだよ?」
「知らない。でも一緒に暮らしてた子たち、みんなどっか行っちゃった、最後に残ったのがわたしだったの」

 

猫と彼女と自分はそこで3年暮らした。自分の前からいたおなじ欧州生まれのコーヒーマシンや、日本橋育ちのガラスのティーポットともそこそこうまくやってた。あるとき、彼女は突然「もうこんなカチカチするだけの生活はいやだ! 人間らしい暮らしをするのだ!」と12年暮らした部屋を出ることにした。地下鉄を少し北上した駅で降りた商店街で見つけた不動産屋で気に入る物件を見つけて契約して帰ってきた。「算数ができない大家さんに出会えた気がする」だの「いやぜったいおかしい、同じ条件で探しても絶対こんな物件でてこない」とか「大家さんの気が変わらないうちに早く引っ越さないと」だの「今度のお部屋は直線ダッシュができるよ」と猫に話しているのを、小さいキッチンの隅で聞いていたんだ。

 

その引越し先は古い建物だけど、いくつかの部屋に分かれていて(いままでたったひとつの部屋で人生のすべてを済ませていたのに!!)、どの部屋にも大きな窓があった。南の部屋からは大きな庭のある古い平屋が見えて、そこの家では気の早い啓翁桜が咲いていたし、緑色の小さい鳥もやってくるのが見える。「メジロっていうんだって。私にも捕まえられそうじゃない?」、もうすっかり子猫じゃなくなった猫が不敵そうにいった。北の部屋からは小さい菜園のあるお屋敷と桜が咲く小さい公園を借景にすることができる。
彼女自慢の「まるで新潟競馬の直線1000mみたいね」という直線数mの廊下は猫の絶好の運動場になったし、キッチンも広くなった。自分がいままで見たことのない3口のコンロがあるし、冷蔵庫だって大きなファミリー用のものが入る。3口もコンロがあってなににするんだろうと思って見ていたんだけど、日が経つにつれ、彼女はだんだん器用に料理をしていくようになったんだ、あの女が! コンビニで3食都度都度買っていたあの女が! 3口コンロってのは偉大なもんだねぇと、一緒に棚に並んでいるコーヒーマシンと話したりした(自分はフランス生まれだけどやつはお隣のスイス生まれだから、言葉は何となく通じるんだ)。

 

そうやって12年のときが過ぎた。女は毎朝コーヒーマシンで珈琲を入れて机に向かいなにかカチカチ言わせてる(おもえばあの仕事机は自分の大先輩で、もう28年もあの女と一緒に暮らしてるんだって! 伴侶かよ!)。午後になるとお湯をわかしティーポット一杯のお茶をつくり、それを机の脇においてまたカチカチ音をさせる。夜には3コンロの前に立って、小さいフライパンを二枚使って食事を作る。そんな暮らしがずっと続いてた、ずっと続くと思っていたんだ。

 

それは年の瀬も押し迫った頃だった。冷蔵庫に見慣れぬ華やかな食材が入り始めたときのことだ。廊下に置いてある猫のトイレを掃除し終わった女が、深刻な顔をして黒いバッグを持ってリビングに戻ってきたんだ。日向でうとうとしていた猫を抱き上げ、そのバッグに入れて急ぎ足で出ていった。「なによ、だしてよ、私をどこに連れて行くつもりよ」という猫の悲痛な声が廊下に残っていた。

何時間かしたあと猫と女は帰ってきた。「ひどいめにあったわ!」とプリプリ怒っている猫と青ざめた顔の女。それから突然、普段だしている猫の食事の量を量ったり、水飲み場に監視カメラを置きはじめた。「おいおい、やりすぎじゃねえのか」とコーヒーマシンと話したんだけど、コーヒーマシンもガラスのポットもなにも答えない。なにが起きているか知ってるようだったけど、自分には教えてくれなかった。

それから何回か黒いバッグに猫を入れて2時間くらい家を空ける、戻ってきて青ざめた顔で女が涙ぐむ、小さい薬を嫌がる猫の口になんとか放り込む、ということが続いたんだ。ある夜、別の部屋で女が寝ているとき、キッチンに水を飲みにきた猫に話しかけてみた。

「なんか最近、あの女、泣くこと増えてない? どうしたの?」
「知らない。この前なんかお腹の上で気持ちよく寝てるときに背中なでてきたんだけど(あ、わたしは撫でられるのいやなんだけどお腹の上で寝るのが好きだからそのふたつを天秤にかけたらお腹の上で寝るほうがいいやってことで撫でさせてるんだけどね)、なんか『軽くなっちゃたなぁ』っていったきり泣き始めるのよ、あんまり鬱陶しいから顔ひっぱたいてやったの、爪も出ちゃったけど、ま、仕方ないよね」
「ひっぱいたの?」
「だって、鬱陶しいんだもの、私の顔見て泣くのよ?」

猫の姿をよく見てみた。腰のあたりの肉が落ちてずいぶんと痩せてる、自慢のふさふさの毛も少し艶がない。でも瞳は力強く輝いてる。おかしい、瞳の美しさと体の貧相さがつりあってない。自分はその瞬間、気がついた。猫の体にとんでもないことが起きているんじゃないかって。コーヒーマシンもガラスのポットも知っていてそれを口に出せなかったんだって。

それから何回か、水を飲みにきた猫から、でかけた先で何をしているのか話を聞いてみた。

「白い台の上に載せられて大きな男にぎゅって捕まえられるの」
「その台についてる赤い数字がぴかぴか光って、『減っちゃってますね』っておにいさんやあの女にため息つかれるの」
「それからいやだっていってるのに冷たいものでお腹をまさぐるのよ」
「ちくっとなにか針みたいなものを刺してくるの、『痛い!』って叫んでも誰も助けてくれないのよ、ひどくない? だからわたし、目一杯あばれるの。その部屋にいるおにいさんやおねえさんの服がわたしの毛で真っ白になるまで暴れるの!」
「あとあそこね、わたしとは違う生き物がよくいるの。はぁはぁいいながらこっちを見るのよ、ひどいときはしっぽも振ってるの、ほんといやらしい!」

「とにかくあそこはいや。でもなんでかあの女が連れてくの、それも毎日!」
「そうか、そりゃ大変だったな」

「でも家に帰ってきて、私の顔を見つめながらあの女が涙ぐむのはもっといや」
「そうか、そうか」

そうかそうか、そうかそうか、全部わかったよ。

 

日本で一番寒くなるといわれている日の朝、自分はコーヒーマシンとガラスのポットに「自分、ちょっと先に行くことにしました」と挨拶した。突然の挨拶に二人は驚いた様子だったけど、ガラスのポットは「じゃぁ昨日の紅茶が君との最後の仕事だったね」と名残惜しそうに返事をくれた。自分より数年先輩のコーヒーマシンが「俺が先に行ってもいいんだぞ?」といってくれたけど、「あんたはもうモデルチェンジしちゃっておなじ型のがないってあの女がいってたよ。自分はおなじタイプのがまだ世界中で作られているから大丈夫。かわりはいくらでもいるんだ」と答えた。コーヒーマシンは「それもそうかな」と寂しそうにうなずいてくれた。

「じゃぁ今日の午後にでも行くね」
「長いつきあいだったね、さようなら」
「きみの勤勉な仕事ぶりは見事だったよ、お疲れさま」
「さようなら」
「さようなら」
「さようなら」

 

午後になって猫が水を飲みにキッチンにやってきた。心配そうにあの女もキッチンに様子を見に来ている、あまり心配していると猫が不審に思うからとわざわざお湯をわかす小芝居付きだ。彼女がスイッチを入れて自分を台にのせたとき、蛇口で水を飲み終わった猫と目があった。

ときがきた、それだけだ。

「さようなら、僕の命を君にあげる」

「え、なんていったの?」という猫の声が聞こえた気がした。その瞬間に自分はもうあの部屋から旅立っていた。ものすごい勢いで天まで登り、おおぐま座のしっぽの位置にたどり着いた。アルカイドの位置だ。ティファールのケトルが役目を終えたらおおぐま座の星になるなんて自分も知らなかった。仲間の星たちとつくる姿に気がついたとき、柄杓星という名前はそういうことだったのかとなんだか突然腑に落ちた。

自分はしばらくそこでまたたきながら、赤いリボンをつけて突然やってきたあの猫の命が少しでも伸びればいいなと考えていた。大丈夫さ、耐久年数20年といわれてる自分の命の残り全部をあげてきたんだからさ、きっとだいじょうぶさ。

 

あとがき

いまミヒャエル・エンデの「モモ」を読んでいるので、頭が童話脳になっています。すみません。なかなか食欲が戻らない猫が、動物病院で点滴を打つようになってから少し食欲が戻ってきてようやく明るい気持ちになれました。しかし、その日、愛用のティファールのケトルが壊れていることに気づき、その瞬間に頭の中に湧き上がってきたおはなしを書きなぐりました。ありがとう、ティファール、長い間、私のおはようからおやすみまで見守ってきてもらいました。中学生が真夜中に書いたラブレターみたいですが、ありがとう、ティファール、ほんとうにありがとう。

 

ティファール ケトル 0.8L アプレシアプラス カフェオレ コンパクト 空焚き防止 自動電源OFF 湯沸かし BF805170

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください