神の席 曽野綾子「貧困の光景」 


貧困の光景
『貧困の光景を構成する場面は一枚一枚カードのように私の心にしまいこまれていて』、その中のひとつ、ブラジルの貧民窟でのある家が紹介されます。その家の住人は、身寄りのない、骨と皮ばかりに痩せた女性。この家の狭い土間には、壊れたシャンデリアが運び込まれている。居住空間のほとんどを〆るようなそのシャンデリアを見て、曽野さんは彼女に「これはどうするつもりか?」と訊ねる。ベッドに静かに横たわる女性はか細い声で「いつか売ってお金にするつもり」だと答える。そしてそれに続く段で、曽野さんはこう語るのです。
貧困がもたらす長年の無秩序があるのだろう。教育の不在、栄養の偏りから来るのではないかと思われる無気力がもたらす思考の停滞、抽象的判断の習慣的欠如、と言ったものが、この薄暗がりの中で硬直しているシャンデリアの残像に結びついている。
貧困がもたらす長年の無秩序、抽象的判断の習慣的欠如・・・これが示すものがいったいどんなものか、その言葉だけを切り出して、しっかりと頭の中に思い描ける人がどれくらいいることでしょう。それらの内容は、この本で多く語られているのですが、想像を絶する貧困とはこのことです。
それを思うと、国家が中学生までは義務教育とし、国をあげて次代を担う世代に投資してくれて、まっとうな読み書きのできる大人に、『抽象的判断のできる』人間に育て上げてくれる日本という国に生まれたことを感謝したくなります。
とはいっても、今の派遣切りのニュースや雇用問題、格差社会の報道を耳にした後、曽野さんの以下のメッセージに違和感を覚えてしまう人も多いでしょう。
それでもまだ日本は社会の格差の増大に苦しむというのが、ここ当分の間、日本国家、与党などへの非難の理由として使われるだろう。答えはただ一つだ。そういう人は、電気のない干ばつのアフリカ、砂漠の続く酷暑のアラビアで、まずほんの短期間にせよ、生きてみたらどうか。そして飢えに苦しむ人々に自分の食べるパンの半分を割いて与えるという人道の基本を体験したらどうか、ということだ。
しょうがないんです。だって、私たちは恵まれた国に生まれたのですから、そんな状況はまったく想像できないし、日本に生まれたからには、日本で生をまっとうしなくてはならない、この国に生まれたなりの苦労もついてまわっている、という実感のほうが先に立つんですから。
とはいっても、私たちの心の中に、なにか、これからの行動のともしびなるような言葉を胸に刻んでおくのもいいと思うのです。私たちができることをできる範囲で。その指針となるような一文があったので、それを最後に記しておきます。
ボリビアの第二の都市・サンタ・クルス、貧困にあえぐ人々を助ける仕事に従事しているイタリア人神父が二人いる教会での出来事。
ヴィンセント神父は私に作業場を見せた後で、入所者たちのための食事にも私を招いてくれた。食堂と言っても、ブドウ棚の下の戸外である。
(中略)
料理を作っているのは、ヴィンセント神父の叔母さんだった。イタリアから甥の仕事を助けるためにはるばるやって来て、この大勢の患者たちの食事の面倒を見ているのである。まさに叔母さんパワーとでも言うべき温かい支援の方法だった。
(中略)
私は神父たちの席についた。するとそのテーブルにまだ一席空いているところがあった。
「もう一人、どなたかお見えになるんですね」
と私は通訳をしてくれる倉橋神父に訊いた。
「いや来ないでしょう。これはイタリアの習慣なんです。いつお客が来てもいいように、常に食事の席は一つ空けておくんです」
そのような習慣を将来私の家庭にも入れたいとその時ほど強く思ったことはない。とび入りで来た人も、席があるなら別に遠慮する必要もなく食事をして帰れる。
これは言わば見えない神の席なのであった。その席に神はいつもご自分の代わりに空腹な人間を招かれるのである。

自然にも、公共のインフラについてもとても恵まれた国・日本に生まれた私たちに必要なのは、その神の席を意識する気持ちではないでしょうか。

1 COMMENT

tm

いつも読書録をたいへん楽しみにしています。
今回も迷わず後追いで読むことにしました。
帯留からなにから、勝手にお世話になっている者ですが
素敵な情報源にちょっとお礼を申し上げたくなりました。
これからも楽しみに&頼りに?しております。
情報をありがとう!(なんかヘンですがそうとしか言えませんで)

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