終戦日流れる星は生きている/藤原てい「流れる星は生きている」

 
BS平日深夜に「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」という全10話の連作ドキュメントを放映してます。この春にも藤原帰一先生と川平慈英さんのコンビで紹介されてましたが、8月は3週間にかけて一気に再放送されます。昨夜は「原爆投下」、1945年の8月1日から15日まで、日本に、大陸に、アジアに、環太平洋にいた日本人はどんな思いで過ごしていたことだろう。
http://www.nhk.or.jp/wdoc-blog/100/163785.html
昨夜は「原爆投下」。太平洋戦争も末期となり、戦後処理について話もつきつつあったところ、トルーマンが原爆投下を決めた、8月6日に一度に何万人もの民間人の命を奪った原爆を広島に落としても日本は降伏しなかった、9日に改めて長崎に落とした、皮肉にもアジア最大のカテドラルをもつ浦上天主堂の上で爆発した、そして15日にようやく降伏した。「こんな非人道的な道具使わなくても戦争は終わったんだよ!」とルーズベルトの副大統領をつとめたヘンリー・ウォレスは異議を訴えるが、「ここで降伏させなかったら、将来戦闘が長引き、アメリカの若者たち(兵士)の生命が奪われてしまったにちがいない」とトルーマンはうそぶく。
戦争が終わりニューヨークでは華々しい紙吹雪の中、人々は踊り喜びキスをする。あれは、日本人がやっと降伏してくれたこと、何百万人もの日本人戦闘員・民間人の命が失われたこと、二つの原子爆弾でトドメをさせたことを祝っていたんだね。ウサマ・ビン・ラディンの暗殺に成功して、USA!USA!と拳を握りしめながら高揚していたのと同じことだったんだね。このドキュメントを見たあとの私には少なくともそう見えました。あぁ。
ドキュメントはこんなセリフで結ばれる、「もしルーズベルトの退任後、トルーマンでなく、ウォレスが選ばれていたら? 原子爆弾は投下されなかったのか? 植民地の解放は早く進んだのか? 冷戦は起きなかったのか?」。そんな仮定をつきつけられても、なにも答えられない私がいるばかりです。
満州から引き揚げ、諏訪の実家に辿り着くまでの日々を描いた藤原ていさんの「流れる星は生きている」を読みました。引き揚げってこんな風に進んだのか、と改めて知ることばかり。
長春(新京)の気象台官舎で暮らしていた藤原家、昭和20年8月9日深夜、「新京から逃げるのだ!」と事態が急変するところから物語は始まります。長春市ってこんなところよ。

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「うわー日本が負けた! ソ連が来る!」となった瞬間、さっさと現地通貨に両替して現金たっぷり隠し持ち、汽車を乗り継ぎ、日本まで要領よく逃げ帰った人たちもいたと思うけど、ていさんたちはそうではなかった。同じ官舎で暮らす人々で帰国団をつくり統率もって逃げ帰ろうとするのだけど、ちょっとグズグズ悩んでいるうちに、刻々と国際情勢が変わり、平壌まで南下する汽車が運行停止になってしまう。あと1日早く決断していれば、もっと早く簡単に日本に帰国できたかもしれないのに、その1日の決断の遅れが、一年の長きにわたる抑留生活になってしまい、留め置かれてしまったばかりに残った男性たちはシベリアに連行されてしまう。
 逃げるときは全力で! 一番強いのは持ち運べる現金だ!
いや、そういう教訓を得る場面じゃないのですが、個人的にはズシンときた。
引き揚げ団は満州から徐々に徐々に南下していく。昭和20年の冬、宣川の小さい粗末な家に40人ばかり押し込められ自活することになる。ちなみに宣川ってこんなところ、

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ていさんは5歳、3歳、乳児の子持ち。同じ官舎チームだからといって、みなが同じ境遇かというとそうでもない、子供がいない人は気楽だし、要領よく現金を隠し持ってる人もいる、「あなた、井戸んところに現金埋めてるでしょ」「えっっ」「ごめん、みんなそれ知ってるw」みたいなことは当たり前。地元の人達の顔色を伺いつつ(本では朝鮮人と書いてある)、時にはモノを恵んでもらい、優しくしてもらい、一年を生き延びる。そして引揚げの機運が高まり、思い切って平壌まで列車で移動し徒歩で38度線を突破することになるのだが・・・・
引揚げの道中の苦労もさることながら、日本の土を踏んでからはまた別の苦労や不愉快なことが続く。
昭和二十一年九月十二日。
私の第二の人生はこの日から始まったように澄み切った気持ちで下船を待っていた。
(中略)
「お母さん、日本人の女の人が歩いているよ!」
正広(※長男さん)が大きな声で叫んだ。着物を着た女の人がちゃんと丸帯まで締めて歩いていた。私は正広と同じように不思議な思いがした。戦争に負けた日本の女は皆私たちのようにみじめな姿でいると思っていあからであった。私も日本の女であるしすぐ前をリュックをかついで歩いている娘さんも日本人であるけれども、正広の見た日本人の女とは別人のようにきたない引揚者であった。旅はだしで歩いている私たちの姿を今さらのように振り返って、
<ああみじめな姿だな>と思った。
(門司から東京へ向かう東海道線の中で)糸崎で夜が明けた。外食券で芋弁当を買った。子供たちは満足そうである。岡山から乗り込んだ人が梨を二個子供たちにくれた。そして閉口しきっている引揚げの話を根堀り葉掘り聞きたがるのである。
「女はひどい目にあったんですってね」
いやな目つきでさぐるように私の顔を見る。この男の聞きたがっていることはよく分かった。

この本をどうして人生のもっと早い段階で読んでおかなかったのじゃろう、せめて2011年3月より前に読んでいたら、と後悔しました。あぁこのいやな目つきの男は、私だ、あの日、暖房のきいた部屋で気仙沼の火災の中継をじっと見ていた私の眼だ。
小説を読みおわったのちに、極東ブログさんの書評を改めて読んだのよ。前半のこの物語の背景のところは、確かに私もそう思っていたけど、後半の陰湿さというのはどうなのかなーとあそさんと同じように思ったわ。陰湿っていうんじゃなくて、「生きるってことはなぁこういうことなんだよ、坊主!」って物語だよね。そこに放り投げられたらほとんどの人がそうなってしまうのではないかと思う。男と女では感じ方が違うのかもしれないけど。
まぁひとつ言えるのは、私が生まれた昭和四十年代って、戦争が終わってからまだ二十年ちょっとしか経ってなくて、はるか遠くのことかと思っていたけどそうでもなかったということ、そういう時間の積み重ねのうえに2013年のいまがあるってこと、そして世界のどこかで今日もまた戦闘行為の犠牲になっている民間人がいるってこと。あぁ!

5 COMMENTS

はつき

すがさんの感想読んで、改めて思ったんだけど、日本の今の国って、藤原ていさんたちのような、同じ日本人の犠牲の上に成り立っているんだよね(沖縄も然り)。国民みんなが「大変だったねー」と等しい思いをもっているわけでなく。戦争って、そういうものかもしれないけど、それが日本の国として背負っていかなければならないものの重さと哀しさなのかもしれないねえ。
私はこの本で、ていさんにはすんごく嫌な奴だった隣組(?)の組長が、自分の組はすごく統率していて頼りにされている存在だったというエピソードが非常に印象に残っています。人間の多面性というか…それをしっかり記録しているていさんもすごいと思ったよ。

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スガ

かっぱおやじの話でしょ!私も「あぁーこれは・・・」とうなっただよ。かっぱおやじはかっぱおやじでいけ好かないヤツだったけど、あの人がいなかったら帰ってこれなかった女子供がたくさんいたんだよねぇ。かっぱおやじめ!
オリバー・ストーンのドキュメントは終戦間際の日本の様子の映像が挟まれるんだけど、結構みなさん華やかで鮮やかな色使いの着物着て歩いてたりしてるんだよね。ていさんは引揚げの一年間、鏡を見る機会がなく、故郷の諏訪にたどり着いて駅舎の中の鏡を見た時に「これが私!?」と愕然とするのですが、同じ女としてそれがまた切なくて。。しかし二十代の女性がこんな労苦を背負って一人で三人のお子さんを連れて・・・。
最後のところ、咲子さんが死んじゃったかのような描写があったから、読者のみなさんも元気な咲子さんを見て驚いちゃったんでしょうね。

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tmgrf

「流れる星は生きている」おかげさまで読了しました。私たちはいつの間にかアントワネットみたいに生きてるんだね~と嘆息。ほんとうにほんとうに、現在の人間についてもにょってしまう内容でした。生き物としてのニンゲンって何!?みたいな。
オリバー・ストーンのもガサっと買ってちびちび読んでいるところです。いつもスガさんの書評と映画評で暮してます。勝手にありがとう~

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スガ

tmgrf さん、そんなっ畏れ多いっ!!
ちょうどNHKで「知られざる脱出劇 ~北朝鮮・引き揚げの真実~」という番組をやっていました。藤原ていさんと同じようなルートです。再放送があると思いますのでぜひ。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0812/
「新田次郎氏が捕虜時代のことをほとんど書くことがなかった」と書かれている場所でずずんとなりました。ほんとうに、ほんのちょっと前の時代の話だというのに。

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