15歳の少年ミヒャエルが経験した初めての切ない恋。
けれども21歳年上のハンナは、突然失踪してしまう。
彼女が隠していたいまわしい秘密とは。
その忌まわしい秘密ということであればあのことなんですが、もしこれが一文字違って「いたましい秘密」というコピーだとしたらあのことを指したのでしょう。
新潮クレスト・ブックスで読んで、読み終わってすぐさまAmazonPrimeVideoで字幕版で映画を見た。ケイト・ウィンスレット様の太ましい二の腕、1950年代の美しいドイツの田園地帯、1970年代ドイツ国内で執り行われた数々の忌まわしき裁判、1990年代の美しい都市のベルリンとニューヨークの姿が描かれています。原作と比較して登場人物も絞られ、時間の変化も鮮明に表現されており、より噛み砕いた内容の映画になっていてわかりやすくてよかった。
小説の方は、読み始めた1行目から物語がぐいぐい進み没入して一日で読み終えてしまった。先日読んだ高村薫の「土の記」は、「あれ、いつ物語が始まるんだろうー」と思っていたら、上巻50ページくらい読んだところで「ふふっ、さっき私、核心についてさらっと言ってたけど気がついた?」という書き手のメッセージに触れ「あ、物語始まってましたね!」と目が覚めたものだけど、この小説は一行目から物語が始まっていった。
物語を読んだあとに映画を見てしまったので、あのケイト・ウィンスレットの素晴らしい演技がなにを示しているのか先に種を知ってしまっていて、その瞬間だけこの作品に触れる順番を間違えたのかな、と少し残念に思った。よい小説とよい映画でした。
ぼく自身は、誰も指さすことができなかった。両親には責めるべきところは何もなかった。(中略)
いや、ひょっとしたら、両親への愛に対しても、責任を持たなければならないのかもしれない。ぼくは当時、他の学生たちが自分を両親から切り離し、それによって犯罪者・傍観者・目をそらした者・許容者や受容者の世代から自分を切り離して、恥の感情とまでは言わないまでも、恥じることの苦しみを克服してしまえるのをうらやましく思ったものだった。しかし、ぼくがしばしば目の辺りにした、彼らの高飛車や自己正当化はどこから来たのだろう。どうやって、罪と恥とを感じつつ、同時に自分を正しいと決めつけることができたのだろうか。両親と自分を切り離し糾弾する行為は、両親への愛によって集団罪責にう巻き込まれることを避けるための、レトリックであり、ノイズに過ぎなかったのか?
そんなふうに考えたのは後のことだった。そう考えたからといって、慰めが得られたわけではない。ハンナを愛することによる苦しみが、ある程度ぼくの世代の運命であり、ドイツの運命を象徴し、そして僕の場合はそこから抜け出たり乗り越えたりするのが他の人よりむずかしいのだ、と言われても、それがなんの慰めになったろう。それにもかかわらず、自分がこの世代に属しているという感覚は、当時のぼくには心地よいものだったのだ。