冬菫千代田にのたり富裕層/谷崎潤一郎「痴人の愛」

年末に風邪がひどくなって消防署のご案内により、普段行かない千代田区側の救急病院に行ってみた。救急病院なんですが、この界隈にお住まいの方々が駆け込んできてまして、なんというかこう、なんとなぁーくにじみ出る生活臭が違った人々でございまして、これが救急病院先を隣町の駅前の病院にしていたらまた見る風景が違っていたんだろうねぇ、などと思いまして、今年になってからこのとき私が感じた思いにぴったりあった文章に出会いました。谷崎潤一郎の『痴人の愛』のこの一節になります。

鎌倉では長谷の金波楼と云う、あまり立派でない海水旅館へ泊まりました。それに就いて今から思うと可笑しな話があるのです。と云うのは、私のふところには此の半期に貰ったボーナスが大部分残っていましたから、本来ならば何も二三日滞在するのに倹約する必要はなかったのです。それに私は、彼女と始めて泊まりがけの旅に出るということが愉快でなりませんでしたから、なるべくならばその印象を美しいものにするために、あまりケチケチした真似はしないで、宿屋なども一流の所へ行きたいと、最初はそんな考えでいました。ところがいよいよと云う日になって横須賀行の二等室へ乗り込んだ時から、私たちは一種の気後れに襲われたのです。なぜかと云って、その汽車の中には逗子や鎌倉へ出かける夫人や令嬢が沢山乗り合わしていて、ずらりときらびやかな列を作っていましたので、さてその中に割り込んで見ると、私は兎に角、ナオミの身なりがいかにも見すぼらしく思えたものでした。
もちろん夏のことですから、その夫人達や令嬢達もそうゴテゴテと着飾っていた筈はありません。が、こうして彼等とナオミとを比べて見ると、社会の上層に生まれた者とそうでない者との間には、争われない品格の相違があるような気がしたのです。ナオミもカフェにいた頃とは別人のようになりはしたものゝ、氏や育ちの悪いものはどうしても駄目なのじゃないかと、私もそう思い、彼女自身も一層強くそれを感じたに違いありません。そしていつもは彼女をハイカラに見せたところの、あのモスリンの葡萄の模様の単衣物が、まあその時はどんなに情けなく見えたことでしょう。並居る婦人立ちの中にはあっさりした浴衣がけの人もいましたけれど、指に宝石を光らしているとか、持ち物に贅を凝らしているとか、何かしら彼等の富貴を物語るものが示されているのに、ナオミの手にはその滑らかな皮膚より他に、何一つとして誇るに足るものは輝いていなかったのです。

世間からトンデモ扱いされてる経済評論家のおっちゃんがおってのぅ、あたしゃその人が好きなんですが、その人が有料メルマガ的なもので年末に谷崎潤一郎の話を続けて紹介してくれました。そこでひどく感銘を受けたのが『誰もが身に詰(つ)まされることを書いて、描いて強い共感を呼んでそれで始めて文学だ。』という言葉で、そうだそうだ、だから人は小説を手に取り、心を動かしながら読み、読み終わってため息をつき、明日へ向かって布団をかぶって寝るのだ。布団をかぶって寝るのだ、猫とともに寝るのだ!

というわけで『痴人の愛』読了。慶大生っていうのは昔からああなのかね!?あぁん? 久々に平成のキャストで映画化するがよい!

痴人の愛 (中公文庫)

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