これがくるのか 吉村昭「関東大震災」


年末から1月にかけて千葉沖でわりと大きな地震が起きるやもしれないという報道がちらりほらりとでてきてるじゃぁありませんか。そのときを、どこで迎えるか、それによってだいぶ運命が違ってくると思うのですが、日々、生活しながら、移動しながら、どんなルートをたどって行動するべきか、いろいろシミュレーションしています。映画「バックドラフト」を見れば、燃え盛る部屋のドアをいきなりあけるとえらいことになるといった教訓を、漫画「サバイバル」を読めば、たとえば野球場のうような広い場所にい合わせても、人数が多ければパニックに巻き込まれるという危険があるという心得を、心に刻んでいるつもりです。それらを踏まえた上で、中越地震を現地で体験したご婦人に「311の揺れくらいだったらどうにかなるかなー・・・なんて考えてるんですよー」と話してみた。「あんたねー。中越の時、私は現地で立ってられなかったのよ。地面に這いつくばっていたんだから」とのこと。うぅ、その日を私は無事に迎えることができるのでしょうか。
と、手をこまねいていても仕方ないですから、過去は一体どうだったのだろうか、どんな教訓が得られるのだろうか、ということで、吉村昭の「関東大震災」を読み始めてみた。大正十二年九月一日のあの大震災のことです。震源地は相模湾沖、浦賀、逗子、鎌倉、平塚、大磯、小田原、箱根の広範囲で家屋が倒壊し、津波の被害も発生、横浜市も甚大な被害があり、レンガ造りの洋館は一瞬にして倒壊、館内にいた大勢の人間が多数圧死、遭難した列車もあり、崩れる崖から車両ごと転落するものも。こわいよぅ。相模湾をのぞむ房総半島南西部でも家屋が多数倒壊、館山では一帯の田が沈下し砂が吹き出るという現象も。さらに埼玉、静岡、山梨、茨城でも被害があり、関東一都六県に大きな被害をもたらした。その中で、東京はどうだったかというと・・・・
 こえー!火がっ、火事が怖いよぅ、火事が怖い!!!
関東大震災は倒壊で亡くなった方よりも、火事で亡くなった方のほうが数倍もあるということは知っていたのですが、読みながら「うわぁ・・・」「ひどい・・・」「なんてこと・・・」と素で声がでる場面が多数。生存者の生々しい証言がいくつも挟まれているのだけれど、本当に地獄。本所被服廠跡の話もなにかで読んだ記憶があったけれど、丹念なルポを読んでいくと、恐ろしさに背筋がざわざわと。
・本所被服廠跡は、二万四百三十坪の広大な空き地。のちに東京都と逓信省に払い下げられるわけですが、えっと、あそこに確かにNTTの建物がございますな。
・正午の地震で家屋が倒壊した人々が、家財道具を抱えて空き地にやってきた。箪笥とか銭函とか布団とか畳とか、現代人が考えるよりも多くの「家財道具」です。
・地震の倒壊から逃れることができ、ほっとした人々は、そこでくつろいでいた、が、午後3~4時頃、対岸で火事が起き、「やぁ燃えているねぇ」などとのんきに見物していたのもつかの間、突風が起き、火の粉が被服廠跡に落ちてきて、家財道具に燃え移る。火勢により竜巻も起こり、『豆をはじくように』人々が舞い上がり、燃えていく。
・烈風に吹き寄せられた人々もいた。
風は一段と激しくなり、集団の先頭にいた者たちが被服廠時代に立てられたトタン塀に吹き寄せられてゆきましたが、そのトタン塀が炎で赤熱していて、そこに人の体がはりつきますと、キリストが十字架にかけられたように例外なく両腕をひろげます。遠くなので声は聞こえませんでしたが、おそらく絶叫したにちがいありません。赤い塀を背景に、人間がつぎつぎとはりつき、たちまち炎に化してゆく光景は、今でもはっきり目に焼き付いています。(生存者の証言)
・この本所被服廠跡では四万人が避難し、三万八千人が亡くなったそうです。なんたる・・・
このはなしひとつをとっても、様々な教訓が散りばめられています。。。家財道具はあきらめよう。。。荷物少なく、道路はお互い広く確保して、燃えにくい素材の洋服で避難しよう・・・。
その他、当時の倒壊状況ですとか、大火の発生状況(地図をなぞりながら読むと、背筋が凍るんだよ、これがまた・・・)などございますので、えぇ、みなさま、今後の人生の指針にぜひ。
当時ほどの火事は起きないかもしれないけれど、時代時代に「ええーこれがそんな結果を招くなんて!」ということが起きるでしょうから、過去の貴重な教訓から想像力をたくましくして、諸々備えておきましょう。

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