藤原家の長女として末っ子として/「父への恋文」藤原咲子


全然関係ないですが、この本の発売日は2011年3月11日なのねー。

父、新田次郎。

母、藤原てい。
 
兄、藤原正彦。
そんなお家に生まれ育った咲子さんが、お父さん藤原寛人(ペンネーム・新田次郎)へ綴ったエッセイ。「佐藤愛子の血族とかもそうだったんだけど、作家の娘さんってどうしてみなさんこんなに文才があるの!」って思いながら読み進めていくと、寛人氏の文章を書くということはどういうことか、その真髄を彼女に叩きこむ英才教育っぷりが数々紹介されていて、ほほぅなるほど・・・と納得させられる。
戦後すぐに3人の子供を連れて満州から命からがら脱出してきた様子を描いた藤原ていさんの「流れ星は生きている」が大ヒットしちゃう。このときていさん、まだ三十歳になるかならないというお年頃。武蔵野の大きな藤原邸はていさんの印税を頭金にして、残りは気象台勤めのパパとママの収入で返済していくことに。「俺も文章で身を立てたい・・・」と思っていた寛人氏にしてみれば忸怩たる思いの日々だったでしょう。しかし、満州から、突然安住の地でなくなってしまった満州から、ソ連が急に侵攻してきた満州から、大変な思いをして3人の子供を連れ帰ってきて、しかもそのうち一人はまだ首も座ってない赤子(咲子さん)で、その赤子の口を塞ぎながら命からがら逃げ帰ってきたていさんに、やっぱり寛人氏は頭があがらない。気象台勤めをしながら小説を書き続ける寛人氏、ある日、ひとつの作品が世に認められ・・・・
うぉぉぉぉー藤原家はそうやって成り立ってきたのか・・・・。ご家族全員がWikipediaに載ってるっちゅーのは文筆業に多いのかしらん・・・。しゅごい・・・。
わたくしは、藤原ていの「流れる星は生きている」をまだ読んだことがないのです。先日本屋にて購入して参りました。これを読むのが今週末の楽しみなんざんす。多分、ハンケチと保湿クリームを傍らに置いて読むことになると思うのですが。いやー長野県って、満州に行った人たちが多いのよー。いつか読まなきゃいつか読まなきゃって思っていたのだけど、そのときが、いま、やってきたのよね! ていさんの旦那さんの小説はあらかた読んだわ、息子のも「若き数学者のアメリカ」と「遙かなるケンブリッジ」の2冊を読んだわ、お嬢さんのも読んだわ、そして今、この家の人達全員が筆を取るきっかけになったであろう母親の本を読み始めるわけよ、機が熟したとはこのことね! 
「流れる星は生きている」は極東ブログさんの書評がとても胸にせまるので、こちらもぜひー。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/08/post_7.html

5 COMMENTS

スガ

ていさんの本、日本人なら全員読んでおくべきなんだと思うよー(これから読む私がいうのもなんなんだが)。
私達が生まれる二十何年前まで戦争やってたんだよなー。今から二十何年前って、JRがクリスマス・エクスプレスとかいって山下達郎の音楽にあわせてCMやってた時代だよー。そう思うと、あのとき、ほんのちょっと前の時代の話だったのよねー。

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カサ

ほんまやね・・
平成生まれの子からすると、私らって戦中派の方に近いのよね。
びっくりするわ~

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はつき

書評、すごいなー。深いなー。
でも陰湿さを日本人の特性としている部分には少々疑問。むしろ人種に関係なく、人間に共通なのではと、私は「流れる星は生きている」を読んで思ったよ。
だいぶ前に読んだんだけど、忘れられない部分がところどころあって、うう、菅さんと語り合いたいですよ。

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スガ

流れる星を・・・を読んだ読者さんたちが子供の咲子さんに出会い「えっ、あなたがあの咲子ちゃん?(生きてたの?)(ちゃんと成長してるの?)」という反応をするということが多かったそうです。うぅぅー。はつきさんには、お嬢さんの本を貸すね~、そこから読み返すとまたひとつなにか発見があるやも。

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