天城峠を越えた女は誰だったのか/三島・韮山で鎌倉殿を辿るの巻

旅のあらまし

三島に立ち寄ってから、伊豆長岡、韮山、修善寺とまわってみた。修善寺から天城越えをして河津に抜ける路線バスを見つけたので、それにも乗ってみた。乗ったはいいが、河津から東京へ戻るのが大変で難儀した。修善寺が伊豆半島の中心にあるくらいの気持ちでいたけれど、全然そんなことなかった。修善寺なんて伊豆の山の入り口じゃないすか、騙したなぁ、よくも騙したなぁ!

水の街・三島市


川沿いの民家にはその家専用の小さな橋がかかっていてかわいらしい。ブラタモリで三島ってもうやってます? この川の街の成り立ちをブラタモリで確認したいものです。


三嶋大社。北条家ゆかりの神社。

韮山と修善寺で鎌倉殿巡礼


静かな山頂カフェで駿河湾と雲のかかっていない富士山を堪能することができた。この山頂テラスの設えになにか既視感が・・・と思って調べてみたら、数年前に行ったびわ湖バレイと同じ経営だった。なるなる。

山頂から北条家の史跡をざっくりと地図と照らし合わせながらアタリをつけた。あれが八重さんが弓で手紙を送った山、あれが千鶴丸さまの川などと山頂からおさらいする。

パノラマパークでタクシーを呼んだら、感じの良い運転手さんがきてくれた。「ただいま観光キャンペーン中で貸切料金半額で提供中!」とのことで、タクシー乗ったところで60分貸し切りに切り替え、韮山の観光地を急ぎ足で周る。


韮山反射炉。なるほどすごい。


韮山反射炉を作った江川様の江川邸。現当主の写真と江川様の肖像画が並んでいてけれど、目元と鼻がそっくりで驚いた。江戸時代からずいぶん時間が経っていると思うのだけど、こんなに遺伝子が残ることってあるんだなと。

政子と源頼朝が並んで富士山を見つめる蛭ヶ島は車内から目視。蛭ヶ島とあるが、つまりは狩野川の中洲ではないですか。氾濫して流れて死ぬなら死んでしまえということではないですか。ひどい。そこから北条家があったとされる小山というか丘をぐるりとまわってもらい、政子のつかった産湯跡などを車内から見てまわる。


北條寺。「あれが政子が頼家様のために建立されたといわれているお寺。門のところに写真(左側の小さい写真)がかかってますでしょ?あのお面が頼家様の病気の様子を彫ったものと言われています。相当悪かったんじゃないですかね」確かに山門にお面の写真が貼り付けてあるのが見える。遠目で見ても尋常じゃない貌のお面。


そこから少し離れたところに八重姫伝説のお寺がある。運転手さんは八重姫は本当にかわいそうなんですよと彼女の人生を語ってくれた。このすぐ近くに古川という川があり、彼女はそこに身を投げたのではないかということでした。古川は狩野川の支流。いまでは穏やかな流れの川ですが、昭和30年代には民家の二階近くまで浸かった大洪水があったくらいの暴れ川だったそう。八重さん、千鶴丸・・・。


最後に大河ドラマ館につけてもらってそこで精算。ここではみどころをまとめた6分ほどの映像が3本流れており、その他ドラマでこの土地ゆかりのシーンで使われた衣装なども。千鶴丸・・・。


大河ドラマ館すぐ近くの韮山駅から駿豆線で修善寺へ。


修善寺駅の温泉むすめと駅むすめ。かわいい。


修善寺駅から修善寺温泉駅バス停まで路線バスで移動。くるっとまわしたポケストップが頼家ゆかりの地蔵で、悲しくなる。


「北条義時ゆかりの地」と染め抜かれた赤い幟に従って歩いていくと、範頼様のお墓。北条義時ゆかりって、ゆかりってどういう意味なのさ。「マクワウリなんかがいいな」とつぶやきながら合掌する。


範頼様のお墓から修善寺はすぐ近くで、それを挟んで徒歩5分くらいのところに頼家様の墓、十三士の墓、政子が修善寺に寄進した指月殿があります。頼家の冥福はいかなものだったのだろう。悲しすぎる。

修善寺は一方通行の道が左右に観光地を囲んでいるので、駅へ戻る路線バスにどこから乗るべきかわからなくなる。迷っていたらタクシーがひらりとやってきたのでするりと停めて駅へ戻る。ここからなんと路線バスで天城越えをしてみます。

天城越え


駅に戻って河津行きの東海バスに乗る。河津まで90分、車内はすべての座席がゆるく埋まっていて、みんな河津に行くのかしらうふふふと思って見ていたら、普通に通勤通学に使っている人が降り、月ヶ瀬温泉のお高い旅館の前でごっそり客が降り、天城峠に入る前には私だけになってしまった。さみちい。


天城隧道を越え、あぁこれで私も石川さゆりみたいに天城越えができたわと感慨深くなる。天城峠を出てしばらくすると河津七滝ループ橋。おぉーループしてるループしてる!! 

大滝温泉では5分休憩し、運転手さんがトイレに行ったり、温泉帰りの乗客もちらほら。ここから先は海へ向かってひたすら下っていく。


着いた!! 河津の海! 太平洋!!

さて、そこから東京へ戻るのが大変で、次に来る伊豆踊り子号は全席グリーン車のセレブ仕様。東京まで一万円ですって。あぁん!? 伊豆から? 東京まで? 一万円!? うっかり河津に降りたためにえらい目に。駅のベンチで時刻表みながらちまちまと計算して、小田原まで伊豆急と東海道線で出て、小田原から愛しのロマンスカーで新宿駅に出ることに(なんてたってあたしゃ新宿区民ですしね)。


小田原で乗ったロマンスカーが眺望グッドカーの先頭車両で、車掌さんが二階から降りてくるところを見られたりしてちょっと楽しかったです。

天城峠を越えた女は誰だったのか

といった旅のあらましを後日知り合いの韮山出身ガールに話し、「ところで北条家は鎌倉までどうやって移動したの? まさか月ヶ瀬温泉とか天城峠経由で行ったの?」と質問してみた。彼女がいうには、「三島まで出て街道沿いを普通に歩いて行ったと思います。天城峠は越えないんじゃないかな、遠回りすぎるし」とのこと。

うんうん、あの道が遠回りだということは、河津・小田原80km2時間の鉄道の旅で私も強く実感した! だって三島・小田原間がたったの36kmなんだもの。昔の人なら一日で歩けた距離でしょう、普通だったら素直にそっちを選ぶよね?

天城越えのモデルは北条政子という説がありますが、もしそうだとしたら人目を避けてあえて山周りの道を? いやいやいやそれにしたって少々過酷すぎないかしら。あの歌のモデルは、北条政子ではなくて川端康成の「伊豆の踊り子」以降の時代の誰かということなのだろう。誰かということは、なんとなくウィキペディアを辿っていくとわかるのですが、まぁそれはそれぞれのひとの胸のうちに・・・

 

ところで石川さゆりさん、あの歌に、なんでこんなにいい笑顔で!?
天城越え

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